人を信じるということ。

今日とある人に、とある話の中で「ヤスは人を受け入れる幅が狭いんだよ」と言われた。会話の中で言われたこととしても当たってると思ったし、厄介なことに俺の性格を総合しても当たっていると思った。
いつからか分からないけど、そんな自分にイライラするようにもなった。なんでかっつったらそんな生き方してたらしんどいに決まっているし、自分の尺度で人を見て、それによって人とどう関わるか無意識に決めているというのがいかにみみっちい事か、と思うからだ。もちろん、自分の視点も大切にしたいし、俺はわがままに生きるんだろうけど、自分だけでは成り立たない事が世の中には山ほどある。ていうか自分が一人で存在している時点でもうすでに二人の人間が俺の命に関わっている。それは極端な話かもしれないけど、一人の世界にどんなに入り浸っていても、それでも一人じゃないのが人間なんじゃないかなあとも思う。
話は少しそれたけど一人の人間がどれだけの人を受け容れられるか、ってのは人それぞれだと思うし、広かろうが狭かろうがそれも人それぞれだ。だけど、せめて自分の中では「信用できる相手か」で人を見る前に「信用する」ことが基本だ。これまで人に対してイライラしている要素の半分以上がこれだったのだろう。そう考えられるようになって、少し自分のスイッチが切り替わった気分だ。「来るもの拒まず去るもの追わず」っていうのが自然体と考えるなら、俺の性格って「来るもの拒み去るもの追う」っていう間逆の性格だったことが最近分かってきた。くやしいけど認めざるを得ない。多くの大切の人たちもこうやって失ってきたのかもしれない。だけど、さらにその逆の方向に、つまり「来るもの拒まず、去るもの追わず」っていうことの良さを最近実感したことがあったのはすごくうれしい。これはカタルシスではなくて、インスピレーションに近いもの。
社会に対していつまでも淀んでいるわけにはいかない。いろんな意味の「社会」、その中で自分はどう生きるのか。それはこの先どうなろうとかまわないけど、もっと転がり続けなきゃ駄目ってことだ。