日記再開
テステス、ああ、あ、ああああ!
笑いのツボ。(長文すまん)
今日、総武線千葉行きの車内でおもしろい光景を見た。
時は家路を急ぐ人で溢れる頃。俺はドアのすぐ横の座席のところによりかかれる場所にいた。小岩を過ぎたあたりの駅で停車したとき俺はふと窓の外に目をやった。総武線の駅の周辺にはダンススクールみたいなのがたくさんあって、そのときも一つのダンススクールが目に入った。そしてそこの窓から中の様子が見ることが出来た。中ではエアロビと思しきダンスを踊っている集団がいた。俺は一瞬、いや3秒くらい釘付けになったけど、すぐにいつもそうしているように視点を定めず車内に移した。すると目の前にいたサラリーマンオヤジ(推定50代半ば)が、さっきまで俺が釘付けになっていたものに同じように釘付けになっていた。そして俺はそのオヤジに釘付けになった。
オヤジの釘付け具合がこれまたシブいのである。オヤジはメガネをかけていたんだけど、オヤジは老眼なのか遠視なのか、メガネのガラス部分ではないところに視界を作るために顔を下に向けて上目遣いで見つめているのである。その様はちょいワルオヤジ顔負けのニヒルなミドルエイジ。
バブルという夢のような時代を、輝きながら駆け抜けたかつての自分をふと思い返すが、もはや帰る家のベッドの上にすら夢はない。唯一あると言えるのはテーブルの上のブランデーと吸い続けてきた銘柄のタバコ。そして毎日帰宅途中の電車から顔のないベッドタウンに横たわる様々な夢と挫折を見続けてきたのだ。そう、ぼんやりと、ぼんやりと、ぼんやりと・・・っていうぐらいにシブーいオーラ身に纏い、奴はエアロビに見入っていたのだ。
人には笑いのツボってのがあって、そのツボも様々だ。今回の場合、俺はシブいミドルエイジとエアロビのあわせ技がちょっとしたツボだったけど、エアロビだけにゲラゲラと反応する奴もいる。もちろん反応しない人もいる。で、どういうわけか他人の笑いのツボが違うというだけで大騒ぎするナンセンスな奴がたまにいる。他人と自分の違いに過剰反応し、それを否定するのに異常なパワーを発揮する奴。笑いに関して言えば、そういう奴は大体がユーモアのセンスが欠けている。「へへ、笑ってくれよ」っていうのがないもんだから、ユーモアが爆発したものに対して鈍感で、逆に誰かを笑いものにすることは得意。こういうのはユーモアとエスプリの違いって書けば済むんだろうけど、そういうことが言いたいわけではない。
笑いのツボって人間関係の繋がりを保つ要因になるってよく聞くけど、確かにそうだ。時間と笑いをを共有出来る関係っていいもんである。そんで、俺は笑いのツボが違ってたり、俺のツボを否定するオーラを出す人とはだんだん仲良くすることが困難になっていった。俺も仲良くしようとしないし、相手もそう思わないからだろう。で、こちらのニュアンスとしては避けるつもりがなくてもそういう形になってしまうときがある。それは精神世界で「逃げ」と言われるものに近い。
俺の日常生活のスタイルは自他共に認める「逃げ」と「言い訳」のスタイル。そんな臆病者だと自分でようやく認めることが出来た。なんでもとことん向き合うことが出来ないタイプなんだろうと思う。そんなことを続けているとちょっとだけ孤独になってくることがある。そうやってだんだん孤独に近づいてゆくのか・・・どうかは知ったこっちゃない。
変な話に脱線したような「笑いのツボ」話はそうではなくて、俺がユーモアのセンスを感じ取れない人に対して俺はそんな疎外感を感じてしまうのだ。そしてそんな人はあまりいないようでいっぱいいて、そして俺の友達にはあまりいないのである。そしてユーモアを感じさせない奴はとことん俺を置いてけぼりにしてゆく。だから孤独を見ていれば孤独なんだろうし、周りを見れば孤独であることはないことがよく分かる。
サムズアップ!
今日友達のKが新しいギターを買った。ギブソンのレスポールジュニアのキース仕様。ワントーン、ワンボリューム、ワンピックアップのとてつもなくシンプルなやつ。「えーっと、これとこれは使わないや、うーんじゃあこれもとっちゃえ!」っていう感じ。ボディーは華奢なのにとんでもないパワーを持っている。誰かさんみたいだ。
で、今日から相棒になった奴が弾くと間違いなく相性ぴったりだった。それで俺も弾いてみたら俺じゃダメみたいだった(笑)。
「素晴らしい音」を奏でるギタリストがいたらそれはギターと持ち主の相性がいいからだ。そして、そこにはビビッと来る運命の出会いや、それまでの付き合い方が反映されている。
すごくいいギターとすごくうまい奴、ってだけの単純な組み合わせじゃ「素晴らしい音」なんて出ない場合もある。またどんなにいいギターでも、どんなにがんばろうがいい音が出ない場合もある。
これは夢見がちな俺の物語の次のページをめくったときに訪れた真実でもある。で、その物語はまだ話の途中だからしばらく読み返すこともないだろう。
昨日、曽我部恵一バンドのライブを法政で見てきた。「日本にロックはない」と誰かが言うのを散々聞いてきけど、それは嘘だったし、そんなことを言う人は「名盤」と書かれた棺桶の中に片足突っ込んで安心する奴らなんだ。
俺はいつも心の中で親指を上に上げて生きてゆく。グッバイとグッドラックを込めて。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐる・・・。
という文章が出てくるベストセラー(?)を最近あっという間に読んでしまった。もったいなかったけど、しょうがない。おもしろいもんだから。
いやあ野グソ、じゃなくて読書の秋っすねえ。というか、もう冬か。街にはクリスマスツリーが、なんてニュースが流れるけどまったく季節感を感じない。
言わずもがな、しかし・・・。
今日、頭の中できらきらしたイメージが突然浮かんでなにやら音楽が響いてきた。作曲のためとか創作とかに繋がるそれではなく、喉が渇くように。
で、どうやら俺はスティーヴィー・ワンダーのキー・オブ・ライフが聞きたくなったらしく、聞いてみた。じっくり聞くのはおそらくウン年ぶりかも。
何でもいいんだけど、中学生の頃よく聞いてた音楽とかあったら聞いてみて。あの頃の記憶が・・・なんて、そんなもん思い出さないんだけど、俺は心とか体とか脳みそとか骨とか、とにかく自分自身を作ってるモノの隙間とかが妙に満たされていく感じがした。原因の分からない隙間であればあるほどそちらにしみていく何かって感じ。言葉にならないからこんな風に伝えるしかない。とにかくこの感覚は、「スティービー・ワンダーだから」とか「僕らのヒット曲集'80sだから」とかそういうこととは違うんですよ。「自分の」っていうところが大事。