自分の目で見るということ。

俺が尊敬する兄貴、山口洋さんと彼の親友でありニューヨークのフォトグラファー、トシ風間さんのイベント‘eye on preciuosness'に行ってきた。

トシ風間。彼は少年犯罪の死刑囚を写真に収める活動をやっている人だ。HEAT WAVEのホームページで彼を知ったんだけど、以前彼が俺が通っている大学に講演しに来たとき行けなかった、というよりも知らなかったので次こそはと思っていた人だ。彼のことは、HEAT WAVEのホームページにも載っているので俺のつたない説明よりそっちを参考にして欲しい。
で、実際彼の話を聞いてみて思ったことをいくつか。彼の被写体は裁判で死刑を宣告された少年、少女の写真だけではなく、関係家族、犯行現場、電気イス、拘束台、死刑囚の墓、牢屋、「最後」のシャワー室など死刑囚の関わるあらゆるバックグラウンドも含まれる。彼はこういうようなことを言っていた。

「死刑について考えるとき『制度反対か、賛成か?』みたいなことに注目するのはばかげている。死刑囚や死刑そのものをカテゴライズしたような見方ではなく、まずは彼らの一人一人の人間としての姿を見ないと」

制度にもたれたやり方により人が法によって殺されること。感情が先走り、もはや憎しみの対象でしかない人間論による賛成派。一人一人の人間をあくまで集合体としてしか見ていない人間論による反対派。人間を一人の人間としてみるということ。そんな基本的なことを欠いた自己正当化がまかり通り過ぎている。だが、彼はこんな前置きもしていた

「犯罪に巻き込まれた当事者にだけ、その気持ちが分かる」

確かにそうなのだ。しかも、この言葉は突き放すような言い方だけどそうではない。人間が実際に物事に直面したときの「自分の目」を除外したやり方で死刑制度は支えられているということじゃないか?

自分の瞳のさらに奥にいる自分。死刑制度のことだけじゃなくこれはなんにでも言えることじゃないかな?自分が物事を視覚ではなく内面でとらえるときにそこにいるのは自分自身。その自分っていうのは他人の考え方を受け売りして養えるもんじゃない。自分が赴くままに世界と交わる。自分が生で体感することで瞳の奥の「自分」は存在し、「考え」というお荷物はもたないでも、そこにこそ自分という人間はいる。
言葉や考えそのものに意味はなくて、その言葉の意味というか中身を埋めていくのは自分という人間でしかあり得ない。あり得なくはないかもしれないけど、そうじゃないとつまんない。あっ、でも影響受けるってのはまた別の話だからね。それを含んじゃうとまた、つまんないし、寂しい。このことについてはいつかまた。

んで、トシさんの写真をスライドで見ながらの話が終わったあと、またまたスライドを流しながらの洋さん&細身魚さんによるセッション。

洋さん曰く「うちに来たみたいに力抜いてね」

って抜けるわけない!魚さんの音響にギターの音が鳴った瞬間、立ちましたね、鳥肌が。目の前でうごめくスライドで「彼ら」の写真を見ながらギターと音響のハーモニーを聴く。これはものすごい画期的なことだと思った。音を聴くとなぜか今まで聞いてきたトシさんの話と写真と自分のが螺旋状に、けれどもスーッと降りてくる感じとでも言いましょうか、不思議な感覚だったね。洋さん今日はテレキャスも弾きまくってたし。

なんとも贅沢なお家体験だったことか。今日の話にはおまけがあるからまた明日にでも書こうかねえ。それこそ力が入らなかったね。

LIFE GOES ON!