バイトの日々。

 久々に更新。と、言いましてもまだ公開前なので読んでる人はいないとは思いますが・・・。最近は日々がバイトに埋め尽くされたような感じで非常にできることが限られる。

 俺が生まれた時にはにジョン・レノンはこの世にはいなかったこととか、ジョー・ストラマーは俺がもうこの世にはいないこととか考えたり、俺が好きなミュージシャンと同化してしまうような感覚がものすごく嫌になったり、年上のおっさんの言うことが信じられなかったり・・・。

 憧れの人の目と俺の目に入ってくるものは俺がいろんな形で「出す」ときに違うものとして出てなくちゃ俺の風景とは言えない。影響を受ける人物なんてものは自覚的に追っかけている人ではないのかもしれないということを最近よく考える。
 「君」という奴がこの世にいるなら「俺」と言う人間がここにいる。だからって何かを言いたいわけじゃなくて、それは物事の基本にあることっていう感覚が俺の中に生まれてきた。
 そして、俺の行動や性格はすべて「君」や「あいつ」や「あれ」や「これ」に繋がっている。それがつまるところ「世界」なんだと。ひとくくりではないけれど、水に映る風景を見ている人は別の誰かに見られ、そのひともまた別の人に見られる、というふうにして延々と繋がってんじゃないかな。俺にそういう「感覚」が少しずつ生まれてきた。
 「出会えたこと」っていうことはすごい不思議なことと思うんだけど、それは「運命」ということとは違うと思う。運命を歩むと考えるなら出会いの奇跡もあったもんじゃない。俺の情熱や衝動は「運命」のもとにあるんじゃない。言葉の置き換えでしかないのかもしれないけど俺の中では「繋がり」という言葉が「出会い」という言葉に近い。繋がっている中で俺とその相手(人物や物事)が少し向き合ったり距離が近くなったりする。だから、出会いに感情が生まれる。
 「ソウルメイト」という言葉をよく使う人がいて、言葉ではなく、ようやくその言葉が「感覚」で俺の中に生まれてきた。そういえば昔の日記にこんなことを書いてた。

「俺は感覚で生きているから・・・(どうのこうの)」

たぶん「感覚」っていう言葉に憧れてただけなんだろうけどこういうのってなんか不思議な気分だね。まあ、今の気分は近いんだけど違うなあ。「感覚で生きる」ってワケわかんないけど、「全部感覚に委ねる」とでも言いましょうか、それなら今の気分に近い。って、ぜんぜん違いが出ていないような気もするけど。
 自分のモットーとして言葉や憧れの人物があったりいたりするのは結構馬鹿げていて、結局自分は振り回される。言葉はあくまで手段だし、言葉に支配されるような生き方はいやだ。憧れの人物もモットーというか「羨望のまなざし」で見たり、自分の中に取り込んだ錯覚に落ちることによって、その人が段々シンボルのように自分の前に吊り下がる状態になると、自分がまるで自分の尻尾を自分で追いかけてぐるぐる回る犬のように滑稽な事になるんじゃなかろうか(まあ、自分がこんな感じだったのかなあと思う)。結局自分の感覚が不在になったところで自分と言葉や憧れの人物との距離はどんどん遠ざかってしまう。
 まとまらなくなってきたので、寝ながら考えることにしようかな。

EVERYTHING'S GONNA BE ALRIGHT!