脳裏に写る街の残像

今日、某音楽ライターのS氏に誘われて梅ヶ丘駅に行ってきた。

街が目覚め、人々の動きが慌ただしくなる頃、俺はそこに着いた。駅前の広場にはケヤキの樹が何本か立っている。何十年も前に近所の人たちが植えたやつだ。ケヤキの樹はそれぞれの視点でとても静かに、ぼんやりと空を見上げていた。広場の真ん中に立つと、ケヤキの樹が大きなアーチをつくるように俺を暖かく向かい入れてくれた。俺はこの街のことを何も知らないけど、ケヤキの樹はここを通る人々を何十年も見守ってきたんだろうなあと思った。人々に気付かれないぐらいすごーく小さな声で、「おはよう」とか「いってらっしゃい」とか「お帰り」を何度も囁いてきたんだろうな。何十年も前に植えられたケヤキはいつしか街の一部になって、人々の暮らしを見つめてきた。
そんなケヤキの樹を突然、ロータリー建設のために世田谷区が切り倒そうとしている。
街の風景って、まさしく普段意識しないのに脳裏にべったりくっついてて離れない日常の一部。それはいつかは変わるものなのかもしれないけど、目の前で変わる姿を見るのはやっぱりさみしい。そう思う人はたくさんいるはずだ。
もちろん変わった街の風景にときめくことだってある。真新しい道路、こぎれいに整えられた街路樹、そして新しいお店が立ち並ぶ。そんな一瞬のときめきのあとには、再びその風景が次第に脳裏にこびりついてゆくのだろう。
梅ヶ丘の駅前のケヤキ広場は変わろうとしている。街の表情は常に変わり続けるもの。でも、それは徐々に変わってゆくものなのではないか?それにケヤキの樹を埋めた人の思いや、凛とした姿で天を仰ぎ、何度も人々に囁き続けてきたケヤキのことを考えると、なんともいえない気持ちが胸を締め付ける。
風景に染み付いたものが剥ぎ取られ、その風景は次第に人々の脳裏の「無意識」から「記憶喪失」のゴミ箱に追いやられる。ただ、耳の奥に小さなささやきを残しながら。

ケヤキよ、捕らわれることなき気高きその魂よ、お前は今宵何を思うのか?